インドネシアで破った「心のバリケード」―留職から5年、様々な領域で挑戦
電源開発株式会社(J-POWER)の金谷さんは、2017年にインドネシアに留職しました。留職中は苦手な英語どころか、インドネシア語も使って積極的に相手とコミュニケーションをし、自身の「バリケード」を破って活動していきました。
自分に自信がなく、与えられた場所の中だけで過ごすタイプだったという金谷さんですが、留職を経て自身との向き合い方や仕事への姿勢がガラリと変わったといいます。留職中の挑戦やその後の変化を伺いました。
思い切って海外で挑戦。到着したのはインドネシアの田舎町
――留職に参加したきっかけを教えていただけますか?
留職に参加したのは、入社9年目・人事労務部に在籍していた時でした。当社で留職を初めて導入したので、まずは研修を統括する部内から派遣してみようとなり、当時の上司から「留職第一号として行ってみないか」と声をかけてもらいました。
自分は「海外で仕事をしてみたい」という憧れを抱いていた一方で、与えられた場所から飛び出すことに弱気で、そんな自分にコンプレックスすら感じていました。
こんな自分を変えたい、全く違う環境の海外で挑戦したい……そう思い立ち、上司にも意志を伝えて、派遣が決定しました。
派遣先はインドネシアの社会的企業・Nazava(ナザバ)です。インドネシアでは日本と違って地下水の水質が安定せず、生活用水として使うにはフィルターによる浄化が必要です。しかしそのフィルターは高額のため、低所得者層は安全な水にアクセスしづらいという課題がありました。そこでナザバは「Safe water for all(全ての人に安全な水を)」を掲げて、誰でも購入できる安価な浄水器の製造・販売を行っていたのです。
このような活動内容のため、団体の拠点はかなり辺鄙な田舎でした。町のなかで日本人は自分だけで、現地に到着したときは「本当に会社を離れて全く知らないところに来てしまった……」という、ワクワクと不安が入り混じった気持ちだったことを覚えています。
――どのような業務を担当しましたか?
出国前の事前ミーティングでは、留職中に就業規則の見直しや採用活動など人事労務関係の業務を担当することになっていましたが、詳細は決まっていない状況でした。英語への苦手意識も相まって、渡航前は「自分が与えられた役割の範囲で頑張って、なんとか失敗なく終わるようにしよう」と思っていたのです。
しかし、現地でその意識はガラっと変わりました。そのきっかけは、団体の活動に対する代表の想いを知ったことです。
活動初日、工場を見学していると、大きな箱が何個も運ばれてきたんです。聞けば、バリ島で起こっていた噴火の被災地で水が不足しており、被災した人へ安全な水を届けるために浄水器を急いで準備している、と。
そして代表の「周囲で人が困っている状況を変えるために、少しずつでも自分たちにできることを積み重ねている」という言葉を聞き、「自分ができることを、思いっきりやり遂げよう!」という気持ちに変化したのです。
自分が最大限に団体に貢献できることは何なのか……ひたすら考えた結果、労務管理のデジタル化や就業規則の改定をメイン業務と設定し、取り組むことにしました。
英語が通じない……殻を破って相手とつながる
――留職中、一番大変だったことは何ですか?
最初の数週間は英語を話せる代表、スタッフ1名とオフィスで仕事をしていたのですが、途中で2名とも海外出張などやむをえない事情で不在となってしまいました。残されたのは私と英語の通じないスタッフたち。しかも彼らは製造や営業を担当しているので、オフィスにいる時間は限られていました。
一方で取り組んでいた就業規則の改定は方向性が見えず、相談相手もいない。「何のためにきたんだろう……」と途方にくれる日々が続きました。
そんななか、クロスフィールズのプロジェクトマネージャーに相談すると「手をつけられることから行動してみては?」と言われてハッとしたんです。自分はこの環境で本当に何もできないのか?勝手に自分の限界を決めていたんじゃないか?と。
そこで「失敗を気にしても仕方ないし、もう恥ずかしさなんてどうでもいい。とにかく当たって砕けよう」と、腹をくくり、まずは翻訳アプリを使って製造や営業スタッフとインドネシア語やジェスチャーでコミュニケーションを取ることから始めました。
例えばスタッフの働き方を知るために営業へ同行し、一緒にデモやセールスをしたことも。そしたらなんと多くの売上につながって、一気に営業チームとの距離が近くなったんです。また、スタッフへのインタビューも実施して、働き方や今の業務の改善案、仕事のやりがいを聞くこともできました。
様々なスタッフとコミュニケーションを重ねていくうちに、気づけば言葉があまり通じなくても意思疎通ができて、相手とつながっている感覚になっていました。
周りに同じ目標に向かう仲間がいるんだと実感できたことで、「この仲間が笑顔で活き活きと働ける環境を作りたい。そのためにはどうすればよいのか?」という視点が生まれて、行き詰っていた就業規則の改定もどんどん進められたのです。
最終的には就業規則の改訂や労務管理のデジタル化をやり遂げたことに加え、スタッフへのインタビュー結果も参考にして採用や営業活動の改善策を考え、それらを経営メンバーに提案することもできました。
2ヶ月間はあっという間でしたが、代表からは「手探りながら、素晴らしい結果を残してくれた。本当にありがとう」と言われ、自分でも「ああ、やりきったな‥‥」と、心地よい達成感と充実感を十二分に実感しつつ帰国することができました。
留職を通じて心の中のバリケードを壊し、自信がついた
――留職を経て、ご自身にどんな変化がありましたか?
留職で「失敗を恐れず、何でもまずはやってみることで道は拓ける」という経験をしたことで、帰国後はやるべきと思ったらすぐに行動し、どんなことがあってもやりきる、という姿勢で業務に取り組むようになりました。
たとえば帰国後に配属となった地方の火力発電所では、当時長年にわたる課題を抱えていて、関係者との交渉も暗礁に乗り上げていたような状況でした。私がその課題を知ったときも、うまい打開策が見つからずにみんなが頭を悩ませていたのです。
そこで私は「失敗しても何か見えてくるかもしれないし、まずは色々やってみよう」と、いろんな切り口でアプローチを考え、それらを試してみることに。そこから約2年間、何度も多くの関係者に対して様々な提案や交渉、コミュニケーションを重ねていった結果、長年の課題を円満に解決することができたのです。
以前の私だったら諦めていたような案件でしたが、留職を経験したからこそチャレンジできたし、成果に繋げられたんだと確信しています。インドネシアでは自分の心の中で勝手に作っていたバリケードを破って行動し、誇らしいと思える結果を生み出せた経験があるからこそ、自信をもって何でも挑戦できるようになったんです。以前の「与えられた場所で勝手にバリケードを張り、その範囲内で失敗なく過ごす自分」は、もうどこかへ行ってしまいました(笑)。
昨年からは当社全体の広報業務を担当しています。これまでとは全く違う領域ですが、失敗を恐れずに新たなジャンルの広報活動にも色々チャレンジし、突っ走ってきました。2年目に入り、「これは手をつけたい」という課題も新たに見えてきたので、その課題解決にも取り組みつつ、当社での広報活動を通じて、社内外の多くの人によりポジティブな影響を与えられるよう、引き続き挑戦を続けていきます。
編集後記
柔らかい人柄のなかにも軸があることを感じさせる金谷さん。「留職はある意味、自分の人生を変えてくれた」という言葉の通り、留職後も新しい環境で果敢に挑戦を続けていらっしゃるエピソードが印象的でした。これからどのような挑戦をするのか、今後の活躍にも期待が高まります。(広報・松本)